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その話というのは、彼がここ広島に来る少し前へさかのぼる。彼、岸本秀樹は元々広島の人間ではない。遥か遠く横浜の、北の国境を流れる多摩川のほとりに彼は生まれた。
この地域は昔から現在に至るまで紛争が絶えず、彼もまだ幼いころに爆撃にあって両親を亡くした。生家はそのまま文京の占領下に入り、帰る場所を失くした彼は、以来各地を転々としながら、祖母の手によって育てられた。
時には生家からわずか4キロほどの難民収容住宅に暮らしたこともある。4キロなら、子供が歩いてもどうにか辿りつける距離だ。しかし彼は物心ついてから一度も生家へ寄り付いたことはない。
なぜなら、その手前、2キロほどのところに、民間人の立入を禁ずる緩衝ラインが引かれていたからだ。高くそびえた灰色のフェンスに有刺鉄線が巻かれ、門は固く封鎖されていた。
もっとも、行ったところで、家があるかはわからない。野ざらしの瓦礫か、あるいはすでに更地になり、今は軍事車両の列に踏み敷かれているのかも知れなかった。
しかしそれを確かめに行くのも、また命懸けの仕事になる。わざわざ寄り付く道理がなかった。
18の年、彼は志願し、軍へ入隊した。志願といっても、彼にさほど強い愛国心があったわけではない。
係争地域に生まれ、親もなく、難民生活さながらに転居を繰り返して育った学のない若者が、犯罪に手を染めず、つまりは祖母を悲しませずに身を立てるには、これしか道がなかったのだ。
彼の配属先は陸軍だった。横浜といえば強力な海軍がその名を内外へ轟かせているが、陸軍も一応存在はしていて、川沿いの国境警備を主な任務として活動している。
その警備隊の中の一部隊に、かつての彼は在籍していた。
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