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「そんな言い方ないだろう」
しかし永川はそれに答えなかった。そして、今度は森野に質問を投げかけてきた。
「…で、兄貴は何つったんだ」
「何って」
「俺がいない間、喋ってたんだろ」
「ああ、そのことか。この寺の縁起物語を聞いたよ」
「そんなことはいい。…俺のことだよ」
永川は森野の顔を見ずに、まっすぐ前を睨んで言った。その横顔を森野はちらりと一瞥し、考えた…、
倉の意図を尊重するなら、何も伝えないのがいいのかもしれない。しかし今は図らずも、直接に対話のできない、コミュニケーション不全の不器用な兄弟の間に立った恰好だ。
ならば、ここはひとつ…、メッセンジャーとして一役買うのも悪くなかろう。
「世の中にはどうしようもないことがある。あの子を見捨てないでやって下さい、正しいのはあの子です、とさ」
「へえ、そうかよ」
その言葉が永川にとって意外だったのかそうでないのかが森野は少し気になったが、この反応ではわからない。
「確かにお前の言うとおり、マスターの手で人が何人も殺されてるっていう事実は、見過ごすわけにはいかないからな…、」
永川の発言を促すべく、森野はもう少しだけ補足をした。倉も永川の置かれた立場を充分に理解している、そのことを永川が知らずにいるのなら、それだけは伝えておきたいと思ったからだ。しかし。
「勘違いするな。そんな事はどうでもいい」
永川はそれを最後まで聞かず、強い語調で遮った。
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