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「お師匠さんがな、こういうの嫌いなんだよ」
「こういうのって」
「ちょっと間違えると取り返しのつかないことがあるようなさ。今からそういうことをやるってのは、まあ状況が状況だし、それとなーく言って出てきたつもりなんだが…、
それでも実際目の届くところで大っぴらにやると、あの人の性格から言って、やっぱり口を出して来ると思うわけだ」
「なるほどな」
「あれで結構口うるさいからな。お師匠さんは大抵口は出すくせに、なかなかすぐに役に立つような手は打ってくれないから困る。その気になりゃ、何でもできるんだろうに」
「ハハ、まあ、確かにそういうところはあるな。でも、すぐに手を貸さないからこそ、みんな鍛えられたんだろう」
「そう言やあ聞こえはいいんだがね。手伝ってくれない程度ならまだしも、邪魔しないでもらいたいもんだ」
「そんな言い方をするもんじゃないよ。そもそも、帰ったら口を出してくるだろうっていうのも、お前の想像じゃないか?」
「それを言われちゃ、そうなんだけど。でも出してくるだろ」
「うーん。まあ、出してくるだろうねえ」
「だろ。…で、森野、どうだ」
永川は倉と顔を見合わせて笑いながら、目を閉じたままの森野に声をかけた。それに森野は片目を開けて答える。
「……申し訳ないが、少し黙って貰えないか」
「ああ、悪い」
「これは失礼を」
言われて二人はそれぞれ謝罪を口にし、それきり黙ったので、森野はまた目を閉じてプールを頭に思い浮かべた。夏の日差し、塩素の匂い、水色の塗装、そしてカリカリという音……、…なんだこの音は。
…いや、これはイメージではない。実際に耳から入ってきている。その音が何であるかを森野が理解するのに時間はかからなかった。…筆談だ。
森野は焦った。何の話をしているのかわからない分、実際に喋り声がするよりもはるかに集中力が削がれる。しかし黙れと言って黙らせた手前、やっぱり喋れとも言いにくい。
机上を鉛筆の走る音に混じって押し殺した笑い声が聞こえる…、くそ、一体何を喋っているんだッ!
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