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入ってよいという返事なので、森野の名を記憶し直す機会を逸したまま、山崎は両手を使って恭しい動作で襖を開けた。するとそこには、暖かそうな絹の和服を羽織まで着込んだ男がひとり、灯油ストーブの真正面へ陣取って座っている。
「まーた、お師匠さん、火ぃくっつき過ぎたら危ないからあきまへんて、言うとるやないですか」
「近頃冷えるけぇ、火のそばへ寄るのが道理じゃ、仕方ないじゃろ」
「そう言うて、去年もお袖焦がしはったやないですか」
「うるさいわ、客人の前でする話でもなかろ、黙っとれ。…ワシは森野を存じとらんで申し訳ないが、遠くなんじゃろ、よう来たの。名古屋さん言うたか、ささ、入りんさい。
ナーも久しぶりじゃの、お前は相変わらず山から滅多に降りてこんのか、顔も見せんでからに。ほれ浩司、無駄口叩いとらんで茶と菓子な」
山崎の早口な小言を体よく制して、前田は森野、それから久しぶりに姿を見せた永川を招き入れる。それから見えたドアラの姿にぴくりと眉を動かすと、嬉しそうに、こう続けた。
「おお、これは珍しいお客じゃの。すると、お前さんドアラマスターか」
「ドアラ?これが!?」
前田の言葉を聞いて、黙っていろと言われたばかりの山崎がいきなり頓狂な声を出した。
「お師匠さん!ほんとにこいつがドアラなんですか?」
「なんじゃお前、ドアラがどんなもんか、知らんかったんか」
目をまるくして再度尋ねる山崎に対し、事もなげに前田は答える。
「そら、知っとりましたけど…。なんや、コアラに似たカッコや聞いたからどんな可愛いんか思とったのに…。なんやの…。キモー…」
大層がっかりとつぶやいて、山崎は生気のない表情のまま再び跪いて一礼し、襖を閉めて姿を消した。
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