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…その山崎は袴に両手を突っ込み、どこへ行くともなく、曇天の下、サンダルをペタペタいわせて歩いていった。
正午を過ぎたばかりというのに一向に温まる気配のない空気を吸い込み、吐いて、また吸って、吐いて…、その何度目だろうか。吸い込まれた空気が独り言に変わり、ボソボソと口から漏れ出した。

「あかんがなー。逃げてもたぁー」

彼は世間の人よりも幾分陽気だが、その師が思っているほどに能天気ではない。人並みに心配もすれば、後悔もする、こともある。特に…、師のことは気にかけているつもりだ。そしてまた逆もしかり、気にかけられていることもちゃんと知っている。

その前半生、戦場から戦場をひたすら渡り歩いた前田には未だ伴侶がなく、従って子もない。甥の東出をはじめとする血縁の者がいるにはいるが、若いころに十数年も土地を離れていた前田とはやはり、今も一定の距離がある。
この天下に身内と呼べるものはただ、三人の弟子を置いて他にない。

しかし…、梵は言うまでもない。永川もまた、不惑を超え幾年かを経て少しずつ老いはじめた前田を碌に省みることなく、何かに取り憑かれたかのように毎日毎日スラィリーを追い、山小屋から降りてこない。
彼らは前田の手を離れたのみならず、勢い余って、到底届かないところへ行ってしまった。もはや何を考えているのかもわからない。常識の範囲に留まっているのは山崎ひとりだけ。

そのことを彼は痛いほどに認識している。師にはもう自分しかいないのだ。


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