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――大矢明彦、横浜海軍長官。海軍力の強い横浜では、政治的な発言力もある程度持つ人物である。
発言力があるということはすなわち、決断の義務とそれに対する責任も持つということであり…、
そして今現在、彼は岐路に立っている。
文京軍のトップに近い指導者でありつつ、大矢と同様に政治力の一部を兼ねて握る原辰徳の名で出された声明は、『他国による』テロ行為を受け軍人に3名の犠牲者を出したことに遺憾の意を表明する、という、端々に噛み潰したような怒りは感じさせるものの、きわめて冷静なものだった。
ガイエルの怒髪天を衝く会見映像と比較するまでもなく、それが随分に落ち着いた、思慮深い対応であることは誰にもわかる。未明の事件から午前10時まで声明の発表に時間を要したのも、おそらくは綿密な話し合いが行われたためだろう。
文京側では現場が詳しく調査できるのだから尚更のこと、実行犯が所沢であることは一目瞭然にわかっているだろうから、話し合いの内容はその件ではない。
例えば、爆破に使われた手榴弾の威力。あるいは、燃え残っていればの話だが…、岸が咄嗟に撃ち込んだ拳銃弾。
所沢で使われている銃は、世間に広く流通したモデルを元に、少し独自のアレンジを加えたものが多い。これは、もし出てくれば、決定的な証拠になり得る。
名古屋は多少古いとはいえ航空写真を持っていて、横浜も対岸からの偵察ができたが、現場は文京支配地域で、しかも多摩川の北岸、南側に位置する両国は、物的証拠が手にできる立場にはない。
せいぜい状況証拠を積み重ねることだけで、それ以上のことは不可能だ。
しかし今回の件は、実行犯やその裏にあるかもしれない取引にはまったく関係なく、長いこと国境紛争でくすぶっている横浜に牽制をかけるには絶好の機会だった。
しかし…、声明によれば幸運にも、横浜は名指しされなかったのだ。
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