483
医者は澱みない口調でそう言った。年はおそらく中年で、表情や声色は落ち着いた誠実そうな雰囲気を醸し出している。広池という名札を付けていることから、彼がここの院長であることも推測できる。
「なにか事前に説明は受けましたか。注射について」
「あ、いえ…、」
「では、ちょっと重要なこともあるので、はじめに説明をさせてもらいます。まず注射の目的なんですが、スラィリー感染症の症状の軽減です。
予防注射と言っていますが、感染自体を予防するものではありませんでして。感染後の急死、あるいは重症化を予防するにとどまります」
「はあ」
森野は口をあけたまま、広池医師のつらつらとした説明を聞き、そして返事をした。その口から話を聞いている様子を見て、広池医師は聡くもこの説明ではだめだと思ったのだろう。再度、別の表現で言い直した。
「つまりですね、スラィリー感染症の予防は現代医学では不可能ということです」
「そうなんですか」
「そうです。本来医者の立場からお尋ねすることではないですが、そこを踏まえたうえでハントにお出かけになられますか。そうでなければ、お考え直しをお勧めします」
「なるほど…、」
永川はこのあたり何も言っていなかった。森野が最初に決死の覚悟と言ったから、いわんや病気をやということで説明しなかったのだろうか。もしそうだとしたら随分だが、永川ならそれもあり得る話だ。
「あの、つかぬことをお尋ねしますが、それなら、何のために注射をするのでしょう」
「感染直後のショック死や、症状の悪化を防ぐためです。感染は防げませんが、注射を受けておくことによって死亡率は大きく下がります」
この森野の質問は直前に説明されたばかりの内容をただ繰り返させるに過ぎなかったが、広池医師はこれにもごく丁寧に答えた。
[NEXT]
[TOP]
[BACK]