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そうして熊が盛んに年寄りをからかっている頃…、梵と彼のスラィリーは、近くの崖の大岩の上に並んで座り、眼下の谷底に溜まった霧の海をぼんやりと眺めていた。
「そのうち嫌になってどっか行っちまうと思っとったのに。カッちゃんはクソ真面目じゃのー、お陰でまーたカミナリじゃ」
梵は手元の石を拾うと、それを霧の中へ投げ入れながら言った。その独り言を聞いて、スラィリーはうつむき加減に、ピルルルと鼻を鳴らす。これは溜息である。
「ヨモギ、お前が気にするこっちゃねーよ。おばあの言うことはもっともじゃけ」
ヨモギというのは、かつて梵が与えた名だ。彼らの出会いはもう随分と昔の話になる。当時、梵はまだ前田の下で修行の身であり、ヨモギはその小柄な少年の背ほどもなかった、まだ幼い子供だったのだ。
――その頃、梵と永川は…、修行の一環として、早朝にランニングを課せられていた。永川がいつも規定のコースを走っていたのに対し、梵は時折、近道をしていた、
そのショートカットコースの途中の道なき道で、ある日、彼らは偶然出会ったのだ。
行く手にスラィリーの子供がうずくまっているのを見て、はじめ梵は身構えた。しかし、そのスラィリーの子は梵を見ても、威嚇の声すら上げない。
不審に思って近づいてみると、足に鉄製の罠が食い込んでいるのがわかった。前年秋に山へ入ったハンターが、そのまま残していったものだろう。
生まれながらに己の背負った使命を頭の片隅に置きつつも…、梵は得意の手刀で罠の蝶番のところを破壊し、それを足から外してやった。
子供とはいえ、スラィリーの毛皮は頑丈だから怪我は大したことはなかった、しかし数日何も食べていないらしく、随分、弱っているようだった。
こんなときお釈迦様は、御自分の身を投げて虎の親子をお救いになったそうじゃがの…、そうつぶやいて立ち上がった梵を、スラィリーの子供は不思議そうな目で見つめた。
「俺はお釈迦様じゃないけぇ、ちょっと待っとれ」
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