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その赤くない味噌汁をすすりながら森野は、あることをとりとめもなく思い出していた。それというのは…、広島にいるはずの有名な武芸者のことだ。
評判がもし本当ならば、数々の伝説として語られる自軍の総司令官の若かりし頃にも勝るとも劣らない猛者のはずで、
森野は士官学生の時分に、歯医者の待合室に置かれていた特集本でその男のことを知ってから、ひそかに目標としてきたのだった。
現在の情勢では、今回無事に生きて帰ったとして、次に名古屋を離れられるのはいつになるかわからない。
広島に行くからには是非会って、ひとことでもいい、どうにか教えを乞いたいものだ…、と森野は以前から思っていた。
昨日からどうもどたばたしていたから、今までそれを忘れていたが、ふとした拍子に思い出したのだ。
その人物はどうにも気難しいことでも有名で、知人でもない自分が訪ねて行ったところで会見が叶うという保障はない、それが悩みの種だった、
しかしこの目の前にいる男、どうしてなかなか強いのだから、もしかすると自分の憧れの武芸者にも、人脈を持っているかもしれない。
だが、それをいきなり尋ねることは非礼だろうか…、と普段の森野ならば考えるのだろうが、
食事をともにすることには、人と人のあいだにある垣根を少し低くする効果があることが心理学的に知られている。
そのためか、このときの森野は実にためらいなく、永川に質問ができたのだった。
「ひとつ、つかぬことを尋ねるが…、前田という人を知らないか」
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