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ああ。また、その名を呼んだ。
それは梵がこうして夢にうなされるたび、幾度も幾度も口にしてきた名だ。
しかし、それが自身にとっての何であるのかを、梵はいつも説明しない。ただその名を、うわごとのように口走る。
荒い呼吸が喉を鳴らす音がする、それから身体を震わす哀れな振動が、分厚い毛皮ごしにも伝わってくる。
一体どうしてしまったのだろう。心臓の鼓動に乗ってその不安が伝わり、たまらない気持ちになる。
しかし、スラィリーに生まれついたその身にできることといったら、精々、たどたどしい発音でその名を呼んでやることくらいだ。
こんなとき、ヒトならば…、なんと言ってやるのだろうか…、しかし仮にそれを思いついたところで、言葉にする術もない。
なにしろ、彼のその名をおいては、他にただひとつの人語も操ることはできないのだ。己の口、そして鼻から漏れるピロピロという音を、スラィリーはこの上なく呪わしく思った。
こんなとき、どうすることもできず、スラィリーはただその腕の中の小さな身体を、確かめるように抱きしめる。
梵はそれに縋りつくようにして、目の前の毛皮を掴む。力が入りすぎている。痛い。
何がそんなに、おそろしいのか。それを知る術はない。
スラィリーにも、神という概念があるのかどうか、それは彼ら自身にもわからないだろう。
しかし、ヒトの言うところの神に向かって、スラィリーはこのとき、確かに、祈った。
…この人を災禍より守る力を。どうか、我に与え給う。
願わくば…、その恐怖を永遠に取り除く力を……。
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