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「当時の梵倉寺は、手入れする者もなく、随分荒れてしまっていましたから、偶然通りかかった村人が自宅に招こうとしましたが…、
雨露が凌げればそれでよいと、孝市法師は仰いまして、ここを一夜の宿に定めたわけです」
絵の迫力に圧倒されている森野の脇から腕を伸ばして、倉は横へ置いてあったチャッカマンを手に取り、祭壇の大きな蝋燭に点火した。
そして、ゆっくりと掛軸へ向き直り、線香を立て…、目を閉じてしばし合掌するので、森野もあわててそれに倣った。
やがて数秒ののち目を開いた倉は、ふたたび森野へ向き直り、昔話を続ける。
「ほどなく日が傾き、逢魔が時になり、にわかに雨が降りはじめました。荒れた畳に横になっていた孝市法師は、旅の疲れで早くもウトウトと、眠りに入ろうとしておられました…、
その時です。お堂の外から、突然、尋常でない気配の女の悲鳴と、それから…、ピロピロという奇怪な声が、激しい雨音を切り裂くように、耳に飛び込んできたのです。
すわ、何事か、と孝市法師は、強い雨の降っていることも忘れて外へと飛び出しました。すると、驚くまいことか…、青い毛皮の巨大な化け物が、その足元に座り込んだ若い娘に、今にも襲い掛かろうとしていたのです!」
「なんと!」
「娘は足を痛めてしまい動けない様子でした。『おのれ化生め!今すぐ立ち去れ!』孝市法師は大声を出しましたが…、化け物は去るどころか、振り返って、ギロリと孝市法師を睨みました。
そして、くるりと踵を返し、今度は、法師の立っておられるほうへ、ズシリ、ズシリと巨体を揺らして…、立ち向かってきたのです」
「ふむ…」
「娘は目を覆いました。当時、このあたりでさえ、スラィリーに対抗できる使い手は一人もいなかったのですから…、どこからやってきたのかもわからない旅の僧などに、何ができるとも思えません。
しかし孝市法師は動じませんでした。その余裕のある態度が余計に娘を不安にさせました、スラィリーの恐ろしさを知らないから、そんなことができるのだ、とね」
「なるほど確かに…」
知らないから、倒そうなどという考えが起こる。知っているものなら誰でも避けて通る…、森野の頭に永川の言葉が不意に蘇り、頭蓋の中を反響する。
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